山縣亮太|経歴と走り方(ランニングフォーム)の紹介

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プロフィール

氏名:山縣 亮太(やまがた りょうた)

生年月日:1992年6月10日

出身地:広島県広島市

所属:
修道中学校
修道高等学校
慶應義塾大学
セイコーホールディングス

身長:177cm
体重:70kg

自己記録

100m 10秒03
200m 20秒41

主な戦績
2007年 全日本中学校陸上選手権100m予選敗退
2008年 全国高校総体陸上100m予選敗退
大分国民体育大会少年B 100優勝
2009年 世界ユース陸上競技選手権大会 100m4位
全国高校総体陸上100m予選敗退
2010年 全国高校総体陸上100m3位、200m2位
千葉国民体育大会少年A 100優勝
日本ジュニア陸上競技選手権大会100m優勝、200m優勝
2011年 山口国民体育大会成年男子100m3位 10.23の当時日本ジュニア記録樹立
2012年 織田記念陸上100m優勝
日本陸上競技選手権大会100m3位
ロンドンオリンピック100m準決勝敗退
2013年 関東学生陸上競技対校選手権大会100m優勝、200m優勝
日本陸上競技選手権大会100m優勝
ユニバーシアード100m2位
モスクワ世界陸上競技選手権大会100m予選敗退
2014年 日本陸上競技選手権大会100m2位
仁川アジア大会100m6位
2015年 日本陸上競技選手権大会100m準決勝棄権
2016年 日本陸上競技選手権大会100m2位
リオデジャネイロオリンピック100m準決勝敗退 4×100mリレー2位
2017年 日本陸上競技選手権大会100m6位

陸上競技経験者であれば、彼のファンは多いのではないでしょうか?
彼の競技に対するストイックな姿勢、そして大舞台での活躍には毎度心を打たれます。特にリオデジャネイロの準決勝は、私がこれまで見た100mレースの中で最も感動した物です。

彼が陸上競技を始めたのは小学校4年生の時です。当時はまだ非常に体が小さかったですが、5年生の時には全国大会100mで8位入賞を果たします。
中学校は私立である修道に進学。陸上競技部に所属し、三年時には全日中にも出場しています。当時の自己ベストは100m11.24です。

彼が頭角を現したのは高校進学後です。大幅にタイムを短縮し、秋の大分国体少年B100mで見事優勝。一躍同世代トップスプリンターの仲間入りを果たします。三年時には高校総体で100m3位に入賞、秋の千葉国体少年A100mでは再度優勝します(ちなみに山縣選手は、国体にめっぽう強いです)。

大学は慶應義塾に進学。自身の走りを追及したいという想いから、短距離の強豪ではなく自由に練習できる環境を選んだようです。その選択が功を奏し、一年時からその才能を開花させます。秋の山口国体で10.23の日本ジュニア記録樹立を成し遂げたのです。それまでのジュニア記録は、1994年に「怪物高校生」高橋和裕氏が出した10.24。17年残っていた古き壁を乗り越えました。これまでは同世代の九鬼巧選手の陰に隠れていましたが、この時から注目を集めるようになりました。

そして2012年。飛躍の年です。春の織田記念陸上にて10.08をマーク。日本史上6人目の10.0台突入となりました。しかしその後ハムストリングスの肉離れを受傷し、調子を落とします。日本選手権ではかろうじて3位入賞し、ロンドンオリンピック代表に選考されました。

こうして迎えたロンドンオリンピック。正直、この時点では山縣選手の実力は未知数でした。
しかし、100m予選で衝撃の走りを見せます。絶好調のヨハン・ブレイク選手と同じ組で走りましたが、なんと10.07を記録し自己ベストを更新したのです。当時の織田記念陸上は非常に条件が良い(良すぎる)大会なので、いわゆるフロックな記録が生まれやすかったのです。しかし、そのような疑惑を一蹴する快走を見せました。
準決勝ではブレイク選手とタイソン・ゲイ選手に挟まれる中、スタートから見事な走り。終盤わずかに固くなりましたが、それでも10.10で走りました。残念ながら決勝進出はなりませんでしたが、待望の勝負強い日本人選手の誕生となりました。

2013年、順調に冬季練習を積み迎えた織田記念陸上。ここでは9秒台の期待がかかり注目を浴びていましたが、予期せぬ所から最強のライバルが出現しました。高校三年生の桐生祥秀選手が予選で10.01を叩き出し、一気に話題をさらっていったのです。決勝では僅差で敗北し、失意のうちに大会を終える事になります。
屈辱を受けた山縣選手ですが、日本選手権では見事に雪辱を果たし、初優勝を成し遂げます。その後ユニバーシアードでは、難敵アナソ・ジョボドワナ選手に敗れはしたものの100m銀メダルを獲得。
そして迎えたモスクワ世界選手権。100m予選から厳しい戦いを強いられます。ウサイン・ボルト選手、またユニバーシアードで敗れたジョボドワナ選手と同組で走り、結果は組4着。タイムでも拾われず、残念ながら予選敗退で大会を終えました。

失意の中世界選手権を終えましたが、ここから山縣選手に試練の時が続きます。世界選手権でのレース中にハムストリングスを痛め、またその後持病である腰痛を悪化させてしまいます。満足に練習を積めず、2014年は調子が上がらないまま日本選手権で桐生選手に敗北。仁川アジア大会も6位に終わります。
2015年は大学を卒業し、セイコーホールディングスに就職。社会人一年目のシーズンでしたが腰痛が改善せず、第一線から退いたまま一年を終えます。

そして2016年。彼は再び表舞台に戻ってきます。冬季練習からパーソナルトレーナー仲田健氏のもと本格的なウエイトトレーニングに着手し、体が一回り大きくなっていました。
春先から調子が良く、織田記念では向かい風2.5mの悪条件下10.27をマーク。そして5月のゴールデングランプリ川崎では、桐生・サニブラウン両選手のみ過度にクローズアップされる中、見事日本人選手一位となります。その二週後の東日本実業団では10.08をマークし、完全復活をアピールしました。さらに二週後の布施スプリントでは桐生選手を再度下し10.06(-0.5)の自己ベストをマーク。
こうして絶好調で乗り込んだ日本選手権の舞台。桐生選手との直接対決、また第三の男ケンブリッジ飛鳥選手も上り調子です。三者とも順調に勝ち進み、迎えた決勝レース。抜群のスタートを切った山縣選手。桐生選手はレース前から固く、山縣選手の独壇場かと思われました。しかし、中盤からケンブリッジ選手が追い上げ接戦に。珍しく山縣選手に力みが見られ失速してしまい、結果は100分の1秒差で2着に終わりました。

日本選手権から約一か月、敗れはしたものの調子は悪くありません。鮮烈の世界デビューを果たしたロンドンから4年。再び迎えるオリンピック、舞台はリオデジャネイロです。
100m予選は、抜群のスタートと加速を見せ10.20(-1.3)で二着、そして準決勝へ。ウサイン・ボルト、アンドレ・ドグラス、トレイボン・ブロメル選手らと同じ、厳しい組に入りました。ボルト選手の出走という事もあり、会場は大熱狂です。レースは山縣選手がリアクションタイム0.109という限界に近い数字を叩き出し、序盤は先行します。しかし中盤からボルト選手が抜け出し、ドグラス選手も続きます。終盤は第二集団で接戦になり、5着でフィニッシュ。記録は10.05(+0.2)の自己記録更新。このメンバーの中、決勝を懸けたレースでの自己ベストは本当に素晴らしいと思います。
後の4×100mリレーでは一走として活躍し、銀メダルを獲得。一躍時の人となりました。しかし個人的には、100m準決勝での走りのほうが遥かに価値が高いものだと思います。

五輪を終え、秋の全日本実業団ではケンブリッジ選手を完封し10.03(+0.5)をマーク。9秒台は時間の問題と思われましたが・・・。

2017年。冬季トレーニングでまた一段体を大きくした山縣選手。3月には桐生選手と共にオーストラリア遠征し、キャンベラで行われた大会に参加します。一次レース10秒06(+1.3)、2レース目は桐生選手と同走しましたが10秒08(-0.1)で完封。日本人としては初めて10.0台を連発し、絶対エースになったかと思われましたが・・・。
大会後、右足首を故障。その後はしばらく大会にでれず、復帰戦となった日本選手権でも10.39(+0.6)の6着で終わり、ロンドン世界選手権代表の座を逃します。


山縣選手の疾走フォームです。
一言でいえば、極限まで無駄を省いた効率的な動作です。彼の走りというのは、若い競技者が表面上だけ真似してしまうと大失敗してしまう危険があります。
エネルギーの分散が少ない、いわゆる<体のブレが少ない>動きですが、決して体幹を固めているわけではありません。上下肢の連動は見事なものですし、速い回転の中にも柔らかさがあります。
腰のねじりなどを最小の動きにとどめている、という解釈が正しいでしょう。また接地時につま先が外に向くのも特徴的で、このタイプは足首の剛性力が弱いためジャンプ系のコントロールテストが苦手な場合が多いですが、反面ウエイトトレーニングと競技力が直結しやすい印象です。モーリス・グリーン選手と似ています。
また、彼に関してはリアクションタイムの速さも抜群です。これまでリアクションタイムは軽視する人が多かったですが、彼は間違いなく何かしらの形で訓練していると思いますよ。


2017年、足首の故障にて苦しんでいるようです。徐々に復調している様子なので、彼なら必ず克服し、再び輝きを見せてくれる事でしょう。

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