【末續慎吾 ❝奇跡のスプリンター❞】

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プロフィール

氏名:末續 慎吾(すえつぐ しんご)

生年月日:1980年6月2日

出身地:熊本県熊本市

所属:西原中学校
九州学院高等学校
東海大学
ミズノ
SEISA

身長:178cm
体重:68kg

自己記録

100m 10秒03
200m 20.03(日本記録)

主な戦績
1996年 国民体育大会少年男子B100m優勝
1997年 全国高等学校陸上競技対校選手権大会200m8位
1998年 全国高等学校陸上競技対校選手権大会100m8位
国民体育大会少年男子A100m優勝
1999年 アジアジュニア100m3位・4×100mリレー優勝
2000年 関東インカレ200m優勝
日本インカレ100m2位
シドニーオリンピック200m準決勝進出・4×100mリレー6位
2001年 日本陸上競技選手権大会200m優勝
エドモントン世界選手権準決勝敗退・4×100mリレー4位
2002年 釜山アジア大会200m優勝・4×100mリレー2位
2003年 日本陸上競技選手権大会100m優勝・200m優勝
パリ世界選手権200m銅メダル獲得
2004年 日本陸上競技選手権大会100M優勝
アテネオリンピック100m二次予選敗退
2005年 ヘルシンキ世界選手権200m準決勝進出・4×100mリレー8位
2006年 日本陸上競技選手権大会200m優勝
ワールドカップ200m銅メダル獲得
ドーハアジア大会200m優勝・4×100mリレー2位
2007年 日本陸上競技選手権大会200m優勝
大阪世界選手権200m二次予選敗退・4×100mリレー5位
2008年 日本陸上競技選手権大会200m3位
北京オリンピック200m一次予選敗退・4×100mリレー3位
2011年 約3年ぶりに競技復帰
2017年 日本陸上競技選手権大会200m予選敗退

個人的に、日本で最も過小評価されているアスリートだと思っています。日本スポーツ界の金字塔、世界選手権200m銅メダリストの末續慎吾選手です。彼が第一線で活躍していた期間は、まさに私の青春時代でもありました。

彼は1980年に熊本県で誕生します。父の陽一郎さんと母の和子さんは共に理容師で、理容室を経営していました。小学校時代は空手やサッカーに取り組んでいましたが、5年生の時に転機が訪れます。近所に陸上のクラブチームが発足し、それをきっかけに陸上競技を始めました。
しかし当時は短距離と走り幅跳びをしていたものの、まだ遊びの延長程度の物でした。

中学校に進学後は短距離種目を中心に取り組むようになりますが、まだまだ全国的には無名で、県大会レベルの選手でした。全日中にも参加しておらず、三年時の秋に100m11.26をマークしています。中学時代は末續選手自身、ほとんど専門的な練習はしていなかったと話しています。

高校は長距離の名門九州学院に進学。ここで恩師である禿雄進監督と出会います。禿監督は、当時の末續選手の事を”我を貫く強さと他を思いやる優しさの両極性を持つ珍しい性格”と評しています。
徐々に専門的な練習に触れていった末續選手。一年時に早くもインターハイ200mに出場。予選落ちに終わりますが、初の全国大会出場となりました。その後9月の新人戦では初の10秒台となる10.79をマーク。
そして彼の名が全国区になったのは、秋の国体でした。少年B100mに参加した末續選手。まだ非常に細身の体で、もがくような荒々しい走りながら、10.63をマークし優勝してしまったのです。

二年時に進級すると、徐々にトレーニングにのめり込むようになります。この頃から小手先の技術ではなく感覚を重視する、彼のスタンスが作り上げられていきます。またこの年の国体で東海大学の高野進監督に初めて声をかけられ、末續選手の暴れ馬のような走りに、未知の可能性を感じたと話されたそうです。

三年時は、怪我の影響もありインターハイでは活躍できませんでしたが、秋の国体では再度優勝を果たします。100m10.37、200m21.08という両種目高校ランキング一位の記録を残し、高校を卒業する事になりました。

大学は勧誘されていた東海に進学、高野進監督のもとトレーニングに打ち込みます。当時の高野監督は、選手を引退しコーチを始めてみたものの結果をだせず、教え子との関係もうまく築けない状態でした。
まだマック式ドリルが不正確に伝わっていた時代で、膝を高く上げる・腕を大きく振るなど、古典的なランニング技術が普及していました。高野監督は自身の経験から、日本選手に適した効率的な走りを追及していましたが、その理念に共感できる人がいなく、学生を含めあらゆる人から批判されていました。
その高野監督にとっても、末續選手との出会いは運命的なものになります。

高野監督と末續選手の相性は良く、ともに新たな走法を模索していきます。
高野監督は、まず伊東浩司選手の走りに着目します。無駄がなく、足を前に切り替えしていくだけの走り。これまでの常識を覆した走法です。しかし、伊東選手はそれを会得するために強靭な筋肉を作り上げていました。
一方で末續選手は軽やかなバネを有しており、ハードルジャンプなどが得意でした。細身ながら、立ち五段跳びも16m程飛んでいたと聞いています。そのシャープなバネを、前にすすむために利用する、いわゆる水切りのような動きを理想とし、トレーニングによって走りを作り上げていきました。

取り組みの成果は早くもみられ、大学二年時には大飛躍を遂げます。関東インカレ200mで初の21秒切りとなる20.67をマークし、五輪参加A標準を突破してしまったのです。さらにその後、五輪壮行を兼ねたスーパー陸上では20.26(当時日本歴代2位)をマーク。ワールドクラスの実力を身に着けました。
初の世界大会となったシドニー五輪では200m準決勝まで進み、伊東浩司氏と同走する事になりました。結果は8着となり、伊東氏との最初で最後となった勝負は敗北に終わりました。

伊東氏の引退後、早くも日本のエース格となった末續選手。大学四年時には100m10.05をマーク、秋のアジア大会200mでも圧勝しています。

そして東海大学を卒業後は、ミズノに入社。一年目の2003年は、歴史的な一年になりました。
シーズン序盤では水戸国際陸上100mで10.03をマーク。日本選手権では、100m・200mの二冠達成。200mでは現在も残る20.03の日本記録をマークします。

出場選手の中でランキング一位として出場した世界選手権パリ大会。一次・二次予選は大きく流しつつも周囲を圧倒。準決勝ではジョン・カぺル選手と接戦の末、見事に二位通過。レース後、呆然と末續選手を眺めるカぺル選手の姿が印象的でした。

そして決勝。混戦のレースとなり、3位争いは激戦。わずかなトルソーの差で、見事に銅メダルを獲得しました。短距離種目の世界大会メダル獲得は日本人初の快挙。会場も末續選手の活躍に大いに盛り上がり、偉業を祝福していました。レース後に高野監督と抱き合う末續選手。実況アナウンサーの”これは正夢です”という言葉が、今でも心に残っています。

2004年は100mに的を絞り、日本選手権では絶好調の朝原宣治選手に完勝。しかしアテネ五輪本番は想像を超えるハイレベルな大会となり、まさかの二次予選敗退。この頃から、少しずつ歯車が狂い始めたました。
2005年は世界選手権で準決勝進出を果たすも、シーズン全体を通して記録は低調に終わります。

2006年は少し復調を見せます。海外転戦を繰り返し、ワールドカップではウォーレス・スピアモン選手とウサイン・ボルト選手に次ぎ、銅メダルを獲得。その後、アジア大会200mで連覇達成。

そして2007年。自国での世界選手権が開催される、重要な年です。シーズン序盤は好調で、日本選手権200mではセカンドベストとなる20.20をマーク。
こうして迎えた大阪世界選手権。一次予選はいつもと同じように流し・・・ているかのようにも見えますが、それ程余裕は感じられませんでした。タイソン・ゲイ選手と同組になった二次予選では、前半から遅れ、後半は大失速。記録は20.70で、まさかの予選敗退に終わりました。
この後彼は、選手生命の危機とも言える程のスランプに陥ります。

2008年は日本選手権で3位に終わり、惨敗。年齢的には集大成ともいえる北京五輪では、一次予選で敗退してしまいます。4×100mリレーでは銅メダルを獲得しますが、この時彼の精神は限界を迎えていました。帰国後のメディアによる取材も、苦痛でしかなかったと話しています。

北京五輪終了後、長く男子短距離界を牽引してきた朝原宣治氏が引退表明。引退会見にて、「今後は末續君がリーダーとして日本代表チームを引っ張っていく」という発言をされています。
しかし、既に末續選手は満身創痍状態。このシーズンを最後に、長期休養に入ります。

それからしばらく、彼が競技会に姿を現すことはありませんでした。
ミズノ主催の陸上教室などには参加していましたが、練習も中断しており、復帰は依然として未定のままでした。

末續選手が再びレースに参加したのは、2011年10月地元熊本での小さな競技会です。
記録は10.8程度でしたが、久しぶりに彼の姿を見てとても嬉しく感じたのを覚えています。
しかしその後、彼が全盛期の力を取り戻す事はありませんでした。
記録は最高で10.5程度。実業団選手としては全国レベルですが、日本代表には程遠い状態。
それでも、彼は走り続けます。

2017年、春先に200mで20.94をマークし日本選手権参加標準記録Bを突破します。末續選手は前年の九州選手権で二位入賞を果たしているため、日本選手権参加資格を手にします。

そして、日本選手権。予選で姿を現した末續選手。そこには、憑き物の落ちたような、晴れやかな表情がありました。彼はこう話しています。楽しくて始めたはずの陸上競技。いつからか目標を見失い、走る事が苦しくなっていた、と。
200mでサニブラウン選手と同組になり、結果は最下位。それでも観客からは盛大な拍手が沸き上がりました。

2007年ごろからは不眠症状が続き、走ると嘔吐するなどの状態だったと明かしています。常に9秒台・19秒台を期待され、結果が出ないと離れていく周囲の人々。北京五輪終了後は危険な精神状態になり、逃げるように熊本に帰ったそうです。
帰郷した後、彼を支えたのは母の和子さんと高校時代の恩師禿先生でした。徐々に心を取り戻し、何のために走っていたのか自問していきます。その過程で走る喜びを取り戻し、競技に復帰するに至りました。



末續選手のランニングフォームの紹介です。
「すり足走り」や「なんば走法」、またキャリア後期では「二軸走法」など様々な代名詞があり、当時は混乱していた方も多かったですが、彼の特徴は<天性のバネを上手に推進力へ変換させる技術>に集約されています。
上記動画は全盛期である2003年の物ですが、全身を柔らかく連動させスムースに足を前に出しています。伊東選手同様水切りのように上下動なく前進する様子が分かります。
2004年以降は体幹のしなやかさを「余計な動き」と解釈し、体を捻らない二軸走法の開発に着手していました。一部では二軸走法に取り組んだせいでパフォーマンスが落ちたと主張する人もいましたが、一概にそうは言えないでしょう。なぜなら末續選手の200mセカンドベストは2007年に出されているからです。


日本選手権を終えた末續選手。今後も競技生活を続行すると話しています。
おそらく、彼が全盛期の力を取り戻す事はないでしょう。しかし彼が走り続けることには、何か意味があると思います。昔とはまた違った輝きを見せてくれるはずです。