ウサイン・ボルト 脊柱側弯症の診断~アテネオリンピック惨敗 訪れる初の試練

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2004年、春に世界ジュニア記録を樹立したウサイン・ボルト選手。同年は、オリンピックイヤーです。絶好調でアテネに乗り込むかと思われましたが・・・そう順調には行きませんでした。

世界ジュニア記録樹立後、彼はハムストリングスを故障してしまいます。さらには背中の痛みが続いたため、受診のためドイツに移動。名医であるハンス・ミュラー・ヴォ―ルファート医師(サッカーのバイエルン・ミュンヘンのチームドクター)のもとを訪れ、そこで彼は、<脊柱側弯症>の診断を下されます。

故障のため満足に練習できない日々が続き、連覇のかかる世界ジュニアは欠場。彼自身はアテネ五輪も欠場を希望していましたが、既に代表に選出されており、もはや回避が不可能な状態に。出場を余儀なくされました。


結果は惨敗。一次予選敗退となりました。
帰国後は、ジャマイカ国民からの大バッシングが待ち受けます。ボルト選手は、心身ともに疲弊してしまい、毎晩パーティーに出かけるなど荒んだ日々を送ってしまいます。

また、故障の原因となったのはトレーニングのせいだという思いが強く、コールマンコーチとの関係も悪化していました。そんな時、彼は運命の出会いをはたします。後のコーチとなる、グレン・ミルズコーチとの出会いです。
ミルズコーチは2003年世界王者キム・コリンズ選手を指導した実績を持ち、非常に評価の高い人物でした。そしてボルト選手は、ミルズコーチに師事することを決意します。

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