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朝原宣治|プロフィール・経歴・走り方の紹介【陸上】

朝原宣治のプロフィール

氏名

朝原 宣治(あさはら のぶはる)

生年月日

1972年6月21日

出身地

兵庫県神戸市

所属

小部中学校
夢野台高等学校
同志社大学
大阪ガス

身長

179cm

体重

75kg

自己記録

60m 6秒55(日本記録)
100m 10秒02
200m 20秒39
走り幅跳び 8m13cm

主な戦績

1990年 全国高校総体陸上 走幅跳優勝
アジアジュニア選手権 走幅跳2位・4×100mリレー優勝
1993年 アジア選手権 走幅跳優勝
第48回国民体育大会100m優勝 (10.19の当時日本記録樹立)
1994年 日本陸上競技選手権大会 走幅跳優勝
広島アジア大会 走幅跳9位
1995年 日本陸上競技選手権大会 走幅跳優勝
福岡ユニバーシアード 走幅跳7位
イェーテボリ世界選手権 走幅跳12位
1996年 日本陸上競技選手権大会100m優勝
アトランタオリンピック100m準決勝敗退・走幅跳予選敗退
・4×100mリレー予選失格
1997年 日本陸上競技選手権大会100m優勝・走幅跳優勝
東アジア大会100m優勝・走幅跳4位・4×100mリレー優勝
アテネ世界選手権100m準決勝敗退・走幅跳予選敗退・4×100mリレー準決勝敗退
ローザンヌグランプリ 10.08の日本記録樹立(当時)
2000年 日本陸上競技選手権大会100m優勝
シドニーオリンピック4×100mリレー6位
2001年 日本陸上競技選手権大会100m優勝
エドモントン世界選手権100m準決勝敗退・4×100mリレー4位
2002年 日本陸上競技選手権大会100m優勝
釜山アジア大会100m2位・4×100mリレー2位
2003年 日本陸上競技選手権大会100m2位
パリ世界選手権100m準決勝敗退・4×100mリレー6位
2004年 日本陸上競技選手権大会100m2位
アテネオリンピック100m二次予選敗退・4×100mリレー4位
2005年 日本陸上競技選手権大会100m2位
ヘルシンキ世界選手権100m二次予選敗退・4×100mリレー8位
2007年 日本陸上競技選手権大会100m2位
大阪世界選手権100m準決勝敗退・4×100mリレー5位
2008年 日本陸上競技選手権大会100m2位
北京オリンピック100m二次予選敗退・4×100mリレー3位(後に2位に繰り上げ)

朝原宣治の経歴

日本男子短距離界のパイオニア、朝原宣治選手。日本人初の100m10.1台・10.0台をマークし、世界大会では5回準決勝に進出するなど、すさまじい戦績を誇ります。キャリア集大成となった北京五輪では400mリレーで銅メダルを獲得し、同年を以てそのドラマチックな競技人生に終止符を打ちました。

彼が陸上競技を始めたのは意外にも遅く、高校に入学してから。中学時代はハンドボール部に所属しており、全国大会にも出場しています。その後夢野台高校に進学し、そこで監督からの勧誘があり陸上競技部に入部する事になります。高校時代は走り幅跳びを専門に取り組み、三年時にはインターハイを制覇。また同じ兵庫県の赤堀弘晃選手とは、数多くの名勝負を繰り広げていました。

高校王者となった朝原選手ですが、当時はまだ五輪の事など考え及ばず、将来は商社マンになりたかったようです。大学進学においては関東の強豪校からも勧誘がありましたが、就職の事を考え同志社大学に決定。関西圏に残留となりました。

同志社大学に進学した朝原選手。ここで後に妻となる奥野史子さんとも出会います。
大学では走り幅跳びの練習の一環として100mに出場する事も増えていきます。そして三年生となった1993年、日本短距離界に衝撃を与えました。秋の国体100mで、10.19という日本記録を樹立したのです。まだ100mの専門訓練を行っておらず、黒人選手に引けをとらないその雄大な走りに、誰もが大きな期待を抱きました。しかし朝原選手はこの記録を「出てしまった記録」と認識しており、あくまで専門は走り幅跳びだという考えは変えなかったようです。

その後もロングジャンパーとして活躍を続けた朝原選手。大学卒業後はドイツに留学し、アルフレッド・ラップコーチの元でトレーニングを積みます。1995年にはイェーテボリ世界選手権にも出場。
1996年には100mで日本選手権初優勝。この時、自身の日本記録を更新する10.14をマークしています。そして初出場となったアトランタ五輪では100m準決勝進出という快挙を達成。さらに準決勝でも10.16(-0.5)という好記録で5着となり、決勝進出まであと0.05秒という素晴らしい結果を残しました。
1997年はローザンヌグランプリ100mにて日本人初の10.0台となる10.08をマーク。アテネ世界選手権でも100m準決勝進出を果たし、世界レベルのランナーに成長しました。

順調な競技生活を送ってきた朝原選手ですが、この頃から足の痛みに悩まされるようになります。そして1999年、足部の骨折にまで至り、一時戦線離脱を余儀なくされました。
しかしこの怪我をきっかけに、朝原選手は足への負担を考慮し、100mに専門を絞る事を決意。彼の第二の競技人生が始まりました。

2000年のシドニー五輪ではリレー種目でのみ出場。100mの日本記録保持者となった伊東浩司選手、後のスーパーエース末續慎吾選手らと共にチームを組み、6位に入賞しています。
この頃には拠点もアメリカに移し、2001年にはオスログランプリで10.02をマーク。エドモントン世界選手権でも二次予選で10.06をマークするなど確かな成長を見せました。
自身が全盛期と認識している2002年はシーズンを通して絶好調。日本選手権決勝では現在も大会記録として残る10.05をマークし、日本人初の9秒台への期待も高まります。

しかし2003年以降は末續慎吾選手の台頭により、朝原選手への注目度は下がっていきました。2004年は春先から好調で、日本選手権準決勝で10.09をマーク。しかし決勝では末續選手に完敗し、日本でも二番手の選手という印象が拭えなくなりました。集大成と位置付けて臨んだアテネ五輪ではまさかの二次予選敗退。不完全燃焼に終わりましたが、この時のインタビューでは「オリンピックはこれが最後」と述べています。

アテネ五輪後は目標を見失った朝原選手。その後も競技を継続しましたが、2005年はアベレージ10.3台レベルとなり、国内でも負けが多くなっていきます。ヘルシンキ世界選手権でも二次予選敗退に終わっており、このまま引退するのでは?という声も増えていきました。
しかし、彼は競技継続を決意します。そのモチベーションとなったのは、2007年に地元で行われる大阪世界選手権。新たな目標を定め、再起を目論みます。

2006年は一年間準備期間とし、表舞台からは遠のきました。その間には塚原直貴選手の台頭があり、国内の勢力図も変わろうとしていました。それでも、彼は淡々と準備を進めます。
こうして迎えた2007年。5月の関西実業団で10.15をマークし、世界選手権参加標準Aを突破!見事復活の走りを見せました。
そして8月、満を持して臨んだ大阪世界選手権。100m一次予選では優勝候補のタイソン・ゲイ選手と同組になりましたが、ゲイ選手を差し置いて一着でフィニッシュ。記録もシーズンベスト10.14をマークし、絶好の仕上がりを見せました。二次予選でも4着に入り、準決勝に進出。準決勝では組最下位となる8位に終わりましたが、自身の力を出し切った素晴らしい結果だったと思います。レース後のインタビューでは涙を流し、競技生活で最も幸せなレースだったと述べています。
その後の4×100mリレーでは塚原ー末續ー高平ー朝原というメンバーで臨み、5位に入賞。メダル獲得こそなかったものの、大会で最も盛り上がったレースになりました。

大阪世界選手権を終えた朝原選手。ふたたび進退について悩みます。地元の大声援を受けて走った100m、自分の力は出し切りました。しかし翌年は五輪イヤー。まだ走りは衰えていません。結局北京五輪を目標に、もう一年競技を継続することに決めました。

そして2008年。今度こそ集大成となる北京五輪。しかし100mに出場した朝原選手は、二次予選敗退に終わります。タイムも伸びず、不完全燃焼。また同大会ではウサイン・ボルト選手の台頭があり、短距離競技の注目度は過去最高レベルとなっていました。
そんな中迎えた4×100mリレー。同種目は予選でアメリカなど有力チームが次々と失格になり、日本にとってはメダル獲得の絶好の機会でした。アンカーを務めた朝原選手は、二番手でバトンを受け取ると、全盛期を思い起こさせる爆発的な加速を見せます。最後は100m銀メダリストであるリチャード・トンプソン選手に抜かれ三位となりましたが、同種目日本初のメダル獲得を達成しました。
何度も引退を考え、それでも挑戦を続けた朝原選手。集大成と決めた五輪にてメダルを獲得するという、とてもドラマチックな結末を迎えました。

北京五輪後はこれまでの経歴もフォーカスされ、一躍時の人となった朝原選手。同年秋のスーパー陸上にてその競技生活に幕を閉じました。

朝原宣治の走り方(ランニングフォーム)


朝原選手のランニングフォームです。
動画でも見て分かる通り、地面をプッシュする強さが他の選手と段違いです。
動作自体は非常にシンプルで、遊脚のリカバリーを強調する事もありません。
彼自身は意識していた点として、
・着地時は踵からつま先に抜けるようなイメージを持つ。接地自体は母指球で。
・キックを終えた脚は自然にリカバリーを待つ。
・丹田(おへその少し下)に重心がある意識を持つ。ボールが弾むような感覚を。
・腕ふりはタイミングをとるだけ。
以上を挙げています。
黒人選手の土俵で真っ向勝負を挑めた、類稀な選手でした。

世界への扉を切り開き、北京五輪でメダル獲得という一つの快挙を成し遂げた朝原宣治選手。ただ、彼の気持ちには「世界のファイナリスト」になれなかったという悔しさも秘めているのではないでしょうか。これに関しては、彼のみぞ知る所ですね。

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