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伊東浩司|経歴と走り方(ランニングフォーム)の紹介

プロフィール

氏名:伊東 浩司(いとう こうじ)

生年月日:1970年1月29日

出身地:兵庫県神戸市

所属:
神戸市立鵯台中学校
報徳学園高等学校
東海大学政治経済学部
富士通

身長:180cm
体重:75kg

自己記録

100m 10秒00(日本記録)
200m 20.16
400m 46.11

主な戦績
1984年 全日本中学校陸上選手権100m5位  200m3位
ジュニアオリンピック100m3位 400m優勝
1985年 国民体育大会少年男子B400m1位
1987年 全国高校総体陸上400m8位
国民体育大会少年男子A400m優勝
1991年 東京世界選手権4×400mリレー出場
1992年 ワールドカップ4×400mリレー6位
1993年 日本陸上競技選手権大会100m3位
シュトゥットガルト世界選手権200m二次予選敗退・4×100m準決勝敗退
1994年 広島アジア大会200m2位・4×100m優勝
1995年 日本陸上競技選手権大会200m優勝
イェーテボリ世界選手権200m二次予選敗退・4×100m5位
1996年 日本陸上競技選手権大会200m優勝
アトランタオリンピック200m準決勝敗退
・4×100mリレー予選失格・4×400mリレー5位
1997年 アテネ世界選手権100m一次予選敗退・200m一次予選敗退
・4×100m準決勝敗退
1998年 日本陸上競技選手権大会100m優勝
アジア大会100m・200m・4×100m優勝
1999年 前橋世界室内選手権200m5位
2000年 シドニーオリンピック100m準決勝敗退・200m準決勝敗退・4×100m6位

1998年、10.00の日本記録を樹立した伊東選手。その後19年間記録は破られず、日本選手にとっては大きな壁として立ちはだかりました。現在は甲南大学で女子陸上部のコーチをされており、私も現役時代に合宿や合同練習でたびたびお世話になっていました。

伊東選手が小学生の頃はスイミングやサッカークラブで活動しており、その頃から足は速かったそうです。また電車が大好きで、当時の夢が車掌さんになる事でした。

中学校に進学後、当初は意外にも陸上競技部に入るつもりはなかったようです。しかし足が速いという噂を聞いた陸上部の監督が勝手に記録会にエントリーし、そのまま半強制的に入部させられたというエピソードが残っています。

短距離走に取り組んでからはすぐに結果が出始め、二年時には全日中100mに出場し、準決勝に進出。三年時はジュニアオリンピック400mで優勝し、また手動計測ながら100m10.7、200m21.8の記録もマークしています。

高校は長距離の名門報徳学園に進学。専門種目を400mに絞り、一年時に国体少年Bで優勝。しかし二年時は低迷した時期があり、一時は陸上競技を辞めようと思った事もあったそうです。それでも三年時秋の国体では46.52の高校記録(当時)をマークし、そのポテンシャルの高さをアピールしました。

高校卒業後は当時400mの第一人者「高野進」が練習拠点にしていた東海大学に進学します。しかしここからが、彼の試練の始まりでした。
東海大にはもちろん有力な選手が揃い、練習も専門的になります。高校時代の練習内容とは質が大きく異なりました。走る速度や筋力トレーニングの強度など、これまで経験した事の少ない練習が続きます。
復調の兆しを見せたのは、三年の時。福岡国体代表に選出された事をきっかけに、代表という責任感から練習に打ち込むようになります。そして国体では見事200m2位になり、久しぶりに全国大会で結果を残しました。
四年時には南部記念で日本人トップになり、東京世界選手権の日本代表に選出。高野選手と共に4×400mリレーに出場しています(結果は予選敗退)。

大学卒業後は富士通に入社。一時は卒業と同時に引退する事も考えたそうですが、もう少しだけ挑戦したいという思いから継続を決意します。
社会人一年目にはバルセロナ五輪代表に4×400mリレー要員として選出。しかし補欠に終わってしまい、ここで大きな挫折を味わいます。この経験がこの後の競技人生に大きく影響を与えたと話しています。

バルセロナ五輪後、何かを変えなくてはと思った伊東選手。地元の恩師に相談した所、鳥取の小山裕史氏が経営するワールドウイングを勧められました。富士通の先輩である競歩の今村文男選手も通っているため、会社の許可も得る事ができ、同年11月ごろより通うことになります。ワールドウイングは少し特殊な施設で、「初動負荷理論」に基づくウエイトトレーニングを中心に実施しています。初動負荷理論に関しては、いずれ機会があれば取り上げたいと思います。

1993年は春先から好調で、200mで20.87の自己ベスト更新。ウエイトトレーニングの効果を実感します。徐々に鳥取に通う頻度も高まっていき、1994年からは動作の改良にも着手。7月に高速スキップを学び始め、そのわずか二か月後に200m20.66をマークします。
好調のまま迎えた広島アジア大会では200mで銀メダルを獲得!4×100mリレーでは金メダルを獲得し、ようやく国際大会で好成績を残し始めました。
さらにその一週間後、熊本で行われた大会で200m20.44の日本記録を樹立!大飛躍を遂げます。

1995年は日本選手権200mで念願の初優勝。イェーテボリ世界選手権では200m二次予選進出、そして4×100mでは5位に入賞します。

1996年は春先から好調で、400m46.11をマーク。ちなみにこれ以降伊東選手は100m・200mに専念する事になるため、これが400m生涯ベストとなりました。その後大阪・長居で行われた日本選手権では200m20.29をマーク。またもや日本記録を更新します。(余談ですがこの大会では朝原宣治選手も100m10.14の日本新をマーク。長居競技場が国内屈指の高速トラックと呼ばれていた所以です。)
日本王者として臨んだアトランタ五輪では200mで準決勝に進出。朝原選手も100mで準決勝に進出し、日本短距離界が世界に近づいた大会ともいえます。

1997年は積極的に海外を転戦します。しかし疲労が蓄積し、アテネ世界選手権では200m一次予選敗退に終わります。その後の冬季トレーニングは非常に強い負荷をかけ、翌年に臨みます。

そして1998年。絶頂期が訪れます。
意外にもこのシーズン、春先は絶不調で200mで22秒台を記録しています。その後はワールドウイングで調整し、20秒中盤に立て直します。秋の日本選手権予選では生涯ベストとなる200m20.16をマーク。また100mでは準決勝で10.10、決勝では日本タイ記録となる10.08をマーク。100m・200mともに日本記録保持者となりました。

最高の状態で臨んだバンコクアジア大会。100m予選で10.03(+2.8)をマーク。追い風参考とはいえ、大きく流した中での快記録です。
そして準決勝では10.00の日本記録を樹立。この記録は2017年桐生選手が9.98をマークするまで、約19年間残る事になります。決勝も圧勝し、悲願のアジア王者となります。
その後の200mも20.25で圧勝、4×100mリレーも制し、見事三冠を達成します。またこの大会ではMVPに選出され、文字通り最も輝いた選手となりました。

しかしアジア大会後は取材などが殺到し、徐々に競技に打ち込む事が難しくなっていきます。マスコミへの不信感から自分の殻に閉じこもる事が増え、精神状態も不安定になりました。そんな中でも1999年はローザンヌグランプリで10.06をマークし、6位に入賞。セビリア世界選手権では100m二次予選、200m準決勝まで駒を進めています。

集大成となった2000年シドニー五輪では足を傷めている中でも100m・200mともに準決勝進出。200m準決勝では次代のエース末續慎吾選手と対決、結果は伊東選手の先着に終わりました。両者はこれが最後の対決となり、夢の中継点とも呼べるレースとなりました。

シドニー五輪を最後にレースからは遠ざかり、結局そのまま引退となりました。引退後は甲南大学で教員となり、現在は教授の座に就かれています。



伊東選手の疾走フォームです。
まさに水切りのような走りで、弾むように前進しています。
末端部の脱力を徹底しており、まるで黒人選手のようにしなやかな身体です。
上記動画では分かりませんが、キック時には足が後方に大きくスイングされています。一見足が流れているかのように見えますが、深い前傾姿勢をとっているためロスが少ないのでしょう。
また腰椎・股関節の伸展可動域が非常に大きく、<いわゆる腰を入れる>動作も強調されています。座位姿勢を取ることが多い現代人がこの動作を自然に会得するのは不可能と思われます。ストレッチや初動負荷トレーニングなど、彼の努力の賜物です。


現役時代は求道者とも呼べるストイックな姿勢で競技に取り組んだ伊東選手。引退後は自身の経験を活かし、学生に対しては素晴らしい気遣いを見せておられます。
彼がいなければ、日本短距離界のレベルはここまで向上していなかったはず。まさに伝説のスプリンターです。

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