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ウサイン・ボルト|プロフィール・経歴・走り方の紹介【陸上】

ウサイン・ボルトのプロフィール

氏名

ウサイン・セント・レオ・ボルト (Usain St. Leo Bolt)

生年月日

1986年8月21日

出身地

ジャマイカ トレローニー教区

所属

レーサーズトラッククラブ

身長

196cm

体重

92kg

自己記録

100m 9秒58(世界記録)
200m 19.19(世界記録)

主な戦績

2002年 世界ジュニア陸上競技選手権 200m優勝
2003年 世界ユース陸上競技選手権 200m優勝
2004年 アテネオリンピック200m一次予選敗退
2005年 ヘルシンキ世界選手権200m8位
2006年 IAAF陸上ワールドカップ200m2位
2007年 大阪世界選手権200m2位
2008年 北京オリンピック100m優勝200m優勝・4×100mリレー優勝
2009年 ベルリン世界選手権100m優勝200m優勝・4×100mリレー優勝
2011年 大邱世界選手権100m決勝失格200m優勝・4×100mリレー優勝
2012年 ロンドンオリンピック100m優勝・200m優勝・4×100mリレー優勝
2013年 モスクワ世界選手権100m優勝・200m優勝・4×100mリレー優勝
2015年 北京世界選手権100m優勝・200m優勝・4×100mリレー優勝
2016年 リオデジャネイロオリンピック100m優勝・200m優勝・4×100mリレー優勝
2017年 ロンドン世界選手権100m3位・4×100mリレー途中棄権

ウサイン・ボルトの経歴

スーパースター。心からそう呼べる人物は、いったいどれ程存在するでしょうか?
大抵の場合は、マスメディアにより誇張されているだけの虚構の存在です。露出を増やしたり、過剰なメディアコントロールにより芸能人のように扱っているに過ぎないものです。
しかし、彼にはそのようなものは必要ありません。
極めてシンプルなスポーツであり、健常な人であれば誰もが経験したことのある行為である短距離走。誰でもできる、が、歴史上誰も彼には勝てない。圧倒的なパフォーマンス、ファンを大切にする姿勢、また王者としての振る舞いなど、全てを兼ね揃えているのがウサイン・ボルト選手です。

1986年彼はジャマイカトレローニー教区で、コーヒー会社で働く父ウェルズリーさんと洋裁職の母ジェニファーさんの元に誕生します。特に母ジェニファーさんにとってはウサインは唯一の実子で、とてもかわいがられたそうです。
幼少期は落ち着きのない子供で、常に走り回り木登りをしていたそうです。(あまりの落ち着きのなさに父ウェルズリーさんが心配になり、病院に連れて行ったというエピソードが残っています。異常はないと診断されたそうです)

幼少期はクリケットに熱中していましたが、8歳の時に学校の先生に勧められてレースに出たのをきっかけに、徐々に陸上競技の大会にも参加していきます。12歳のころには身長が既に180㎝近くあり、本格的に競技に集中していきます。
当初は同世代の選手に敗れる事もありましたが、着々とステップアップを続け、そしてついに飛躍の時を迎えます。

2002年、15歳で迎えた地元開催の世界ジュニア選手権200mで優勝します。この大会は、20歳未満の世界一を決定する大会。大学一年生に高校一年生が勝利するようなものです。どれだけ彼が規格外か伺えるかと思います。
2003年には世界ユース選手権優勝し、200mでは大会記録を樹立します。(後にサニブラウン・ハキーム選手がこの記録を塗り替えます。)パリ世界選手権の代表にも選考されていましたが、体調不良のため出場には至りませんでした。
2004年、17歳ながら200m19.93をマーク。これは現在でも世界ジュニア記録として残っており、シニアでも通用する怪記録です。日本のトップ選手では、17歳時のボルト選手にも遠く及ばないのです。

ここまで順調にキャリアを積んできたボルト選手。しかし、ここから彼の苦悩が始まります。世界ジュニア記録を樹立後、ハムストリングスの肉離れを受傷してしまいます。また、慢性的な背中の痛みが続き、ドイツの専門医ハンス・ミュラー・ヴォ―ルファート医師を訪れます。そこで彼は、難治性脊柱側弯症の診断を受けます。
既にアテネオリンピック代表に選考されていたボルト選手。代表辞退はできない状況でした。
満身創痍の状態ですが、やむを得ず出場したアテネオリンピック。一次予選敗退という惨敗を喫し、国民から大バッシングを受けてしまいます。

アテネから失意の帰国となったボルト選手。しばらくは夜遊びに没頭しましたが、ふたたび競技に向き合うことに。ここで彼は1つの決断を下します。それまでのコーチに不信感があったため、名コーチと呼び声高いグレン・ミルズ氏に指導者を変更したのです。

2005年はヘルシンキ世界選手権に出場。決勝進出をはたしますが、決勝レース中にハムストリングス肉離れを再発。残念な結果に終わりましたが、復活の兆しを見せました。2006年には二年ぶりに自己記録も更新し、海外のレースでも結果を残し始めます。
そして2007年には、大阪世界陸上にて200m銀メダルを獲得。100mで絶対的な強さを見せたタイソン・ゲイ選手に敗れはしたものの、コーナーまではほぼ互角の好走でした。

そして迎えた2008年、彼の人生は大きく変わります。このシーズンからスピード強化のため100mにも本格参戦し、シーズン二戦目でなんと当時世界歴代二位となる9.76をマーク。そして次戦、リーボックグランプリでは世界王者タイソン・ゲイに完勝。9.72の世界記録を樹立したのです。
ジュニア期は圧倒的な存在だったボルト選手。しかし怪我が多いため、シニアでは突出した結果を出せずにいました。「ボルトはただの早熟だったのか?」という声も多数聞こえていましたが、それらを黙らせるパフォーマンス。誰もが、伝説の幕開けを予期しました。

満を持して乗り込んだ北京オリンピック。金色のスパイクを携えて現れたボルト選手。その強さは想像以上でした。準決勝では後半ゆるやかに流し、なんと9.85。これは通常の世界大会なら優勝できるレベルの記録です。
異次元の強さを見せつけ、迎えた決勝。タイソン・ゲイ選手は怪我の影響もあり準決勝で姿を消しました。つまり、ライバルは不在です。
スタートはリチャード・トンプソン選手が抜群の飛び出しを見せ、先行します。しかし、30m地点で追いつき、そこから周囲との差は開く一方でした。勝利を確信したボルト選手は、90m地点から手を大きく開くパフォーマンス。最後は大減速しましたが、それでも記録は9.69!ヒストリカルモーメントの瞬間です。
続く200mでも19.30をマークし、圧勝。不滅の記録と呼ばれたマイケル・ジョンソン氏の世界記録19.32を更新しました。
この大会をきっかけに、世界で最も高名と呼ぶにふさわしいアスリートとなり、陸上界のシンボルとなりました。

2009年、春先に大きな交通事故を起こしますが、奇跡的に軽傷で済むという強運を見せます。前年の北京オリンピックでの100m、終盤の失速がなければどれ程の記録が出るのか?という話題が頻回に行われていましたが、その答えが出る時が来ました。舞台はベルリン世界選手権です。
復調を見せるライバルのタイソン・ゲイ選手。ボルト選手はベルリンでは非常にテンションが高く、自信に満ち溢れていました。準決勝は前年同様かなり流しながらも9.8台。決勝は期待がかかります。
決勝では、ボルト選手も抜群のスタートを見せ、中盤では体一つ分前にリード。ゲイ選手も追いかけますが、差は変わらずにフィニッシュ。ボルト選手の記録はなんと9.58!二着のゲイ選手も9.71と素晴らしい記録でしたが、絶対的な力の前に敗れ去りました。続く200mでもさらに記録を更新し、19.19をマーク。一体ボルトはどこまで速くなるのか?と議論されていましたが、結局この大会での記録が生涯ベストとなりました。

2011年大邱世界選手権では、少し力に陰りが見えていました。100m決勝では世界記録更新のプレッシャーもあってか、まさかのフライングによる失格となってしまいます。200mは圧勝しますが、19.40と以前ほどのパフォーマンスは見せられなくなっていました。

2012年、ロンドンオリンピック開催の年。ボルト選手のキャリアの中で、最大の試練だったのではないでしょうか。自身が思うように走れない中、新たなライバルが出現します。
ヨハン・ブレイク。レーサーズ・トラッククラブのチームメイトで、練習を共にする仲。昨年ボルト選手が失格した世界選手権100mを制し、さらにその後200mで19.26を叩き出したスプリンターです。
その二人が、五輪選考を兼ねたジャマイカ選手権で激突します。しかし、結果はブレイク選手の完勝に終わりました。100mは大差で圧勝。200mは接戦になりましたが勝利します。
こうして、ボルト選手は精神的に追い詰められていき、不安を抱えた中でのロンドンオリンピックを迎えます。

ロンドンオリンピック100mは、史上最高レベルのレースとなりました。絶好調のヨハン・ブレイク、復調の兆しを見せるタイソン・ゲイ、ドーピングによる永久追放を免れ復帰したジャスティン・ガトリン、前世界記録保持者のアサファ・パウエルらが揃い、まさに21世紀のドリームマッチです。
決勝レース、序盤はガトリンとブレイクが先行し、ゲイが追い上げる構図に。ボルトは少し遅れています。しかし中盤以降、三人が大接戦を繰り広げる中、爆発的なトップスピードでごぼう抜きしたのは、やはりボルト選手でした。9.63のオリンピックレコードの樹立、悲願の連覇達成です。彼のキャリアの中で最もプレッシャーが強かったレースではないでしょうか。
続く200mでもブレイク選手を下し、連覇達成。人類最速の称号を、決定的なものとしました。

その後はブレイク選手が怪我で戦線離脱、ゲイ選手がドーピング違反にて出場停止となり、ライバル不在の状況になります。
2013年モスクワ世界選手権は無難に勝利を収め、100m・200m・4×100mリレーの三冠達成。
2015年北京世界選手権ではガトリン選手が絶好調で挑みますが、さすがの勝負強さを見せ返り討ちに。またも三冠を達成します。
2016年はリオデジャネイロオリンピックの年。三種目三連覇に挑むボルト選手ですが、対抗馬となるほどの新鋭は現れず。力は明らかに衰えていたものの、圧勝で三冠達成。これで、五輪は三大会連続での三冠となりました(後に北京五輪リレーの金メダルは剥奪に)。

2017年はロンドン世界選手権100mに出場。同大会での引退を表明していたボルト選手。大会前に友人が他界し、ショックで3週間練習ができなかったと語るなど、明らかに以前ほどのモチベーションは保てずに臨んだ試合です。
100mは以前の爆発力は鳴りを潜め、またフォームに乱れもありました。決勝はガトリン選手と新鋭クリスチャン・コールマン選手に敗れ、銅メダルに終わります。
引退レースとなった4×100mリレーではハムストリングス肉離れを発症させ、まさかの途中棄権に終わりました。
こうして、伝説的な実績を残したスプリンターの競技生活に幕を閉じる事となりました。

ウサイン・ボルトの走り方(ランニングフォーム)


ウサイン・ボルト選手のランニングフォームです。
独特な脊柱の波動運動が観察されます。高岡英夫氏が正面からの走り方を見て「トカゲ走り」と称していましたが、それより注目すべきは横から見た胸腰椎の見事な前後弯運動でしょう。いわゆる「腰を入れる」という表現がありますが、彼の場合はみぞおち辺りから前に突き出るイメージです。ネコ科の動きを連想させますが、この動作は不用意に真似すべきではありません。非常に大きな脊柱の伸展可動域を必要とし、なおかつ関節を保護する筋(多裂筋など)が機能している事が絶対条件だからです。
足の運びも無駄なく、接地は200mランナー特有の柔らかさもあります。この動画は2008年北京五輪時の物ですが、個人的にはこの時のフォームが最高だった印象です。2009年も100m・200mともに自己ベストを更新しましたが、どちらかというと筋力面での改善が主な理由だと考えています。
キャリア後半では少し肩甲骨周囲の動きが悪くなった印象があり、代償的に脊柱後面筋の緊張が高まっていました。また接地に関しても積極的に振り下ろす動作が強調されていき、この当時の柔らかさは見られなくなりました。しかし、故障を抱えた上で常に世界記録更新が期待され、様々な試行錯誤を繰り返した結果だと思います。

2008年以降、ボルト選手の人気に支えられた陸上界。彼が引退した今後、その真価が問われる事になるでしょう。ドーピング問題などに片をつけ、競技としての価値を高めなければ未来はありません。
それにしても、果たして彼の全盛期を超えるスプリンターは現れるのでしょうか・・・。

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